2015,07,27, Monday
先々週の台風は各地で大きな被害をもたらしましたが、幸いこちらは雨風共にたいしたこともなく一安心。
福岡では山笠が終わりを告げると梅雨が明けると言いますが、そんな気配は全くありませんw
梅雨明けを妨害するその台風が去った直後の連休中、天気が心配ではありますがちょいと旅に出かけてきました。
場所は長崎県の島原。
不安定との天気予報を裏切って朝から強い日差しがチクチクと肌を突き刺します。
前日までの雨で潤った外堀の蓮は、青空の下でその葉を目一杯広げて光合成の真っ最中。
青と緑とお城の白壁がとても美しく輝いていました。
今回の三連休はどこへ行こうかとあれこれ悩んだのですが、結局九州を飛び出すことができませんでしたw
かみさんは「泊まりで出かけるならやっぱり温泉がいい・・・」と予想通りの言葉。
私も家事と仕事と子供の世話で休まることなく働いてきたかみさんを少しリフレッシュさせてあげたいと思いましたので、車で行ける温泉地で今まで行っていないところをピックアップして雲仙・島原に決めたのでした。
個人的には九州以外で・・・と思っていたのですが、まぁ訳あって近場への旅となりました。
車で九州道、長崎道を経て諫早から島原半島に入り、広域農道を抜けて島原へ・・・
自宅からだいたい2時間半くらいですか、意外と早く到着。
天守閣からは有明海(島原湾)を挟んで阿蘇山が見え、西に目を向けると目の前には眉山と平成新山。
大きな被害を出した火砕流、あれからもう24年経つんですね・・・
島原の歴史資料などをゆっくりと見て回り、ちょいと早めの昼食を取ることにします。
島原といえば具雑煮、その具雑煮の有名店である姫松屋です。
実は島原に到着してすぐに食べる予定だったのですが、あまりにも早く着きすぎたのでお店はまだ準備中でしたw
お店の人は「どうぞ、いいですよ」と言ってくれたのですが、まだ10時前で食べるにはちょいと早すぎるw
ですから先にお城を見て回ったのですが、階段の上り下りなどでちょうどいい感じで腹も減ってきました^^
具雑煮定食の松を2つと子供には単品の具雑煮。
鰹出汁のよく効いた具雑煮は文字通り具だくさんで腹一杯になります。
食後に寒ざらしを頂いてごちそうさま・・・
さて、時計の短針がそろそろ右に傾いてくる頃です。
次の目的地に向かうべくお店を出ました・・・
福岡では山笠が終わりを告げると梅雨が明けると言いますが、そんな気配は全くありませんw
梅雨明けを妨害するその台風が去った直後の連休中、天気が心配ではありますがちょいと旅に出かけてきました。
場所は長崎県の島原。
不安定との天気予報を裏切って朝から強い日差しがチクチクと肌を突き刺します。
前日までの雨で潤った外堀の蓮は、青空の下でその葉を目一杯広げて光合成の真っ最中。
青と緑とお城の白壁がとても美しく輝いていました。
今回の三連休はどこへ行こうかとあれこれ悩んだのですが、結局九州を飛び出すことができませんでしたw
かみさんは「泊まりで出かけるならやっぱり温泉がいい・・・」と予想通りの言葉。
私も家事と仕事と子供の世話で休まることなく働いてきたかみさんを少しリフレッシュさせてあげたいと思いましたので、車で行ける温泉地で今まで行っていないところをピックアップして雲仙・島原に決めたのでした。
個人的には九州以外で・・・と思っていたのですが、まぁ訳あって近場への旅となりました。
車で九州道、長崎道を経て諫早から島原半島に入り、広域農道を抜けて島原へ・・・
自宅からだいたい2時間半くらいですか、意外と早く到着。
天守閣からは有明海(島原湾)を挟んで阿蘇山が見え、西に目を向けると目の前には眉山と平成新山。
大きな被害を出した火砕流、あれからもう24年経つんですね・・・
島原の歴史資料などをゆっくりと見て回り、ちょいと早めの昼食を取ることにします。
島原といえば具雑煮、その具雑煮の有名店である姫松屋です。
実は島原に到着してすぐに食べる予定だったのですが、あまりにも早く着きすぎたのでお店はまだ準備中でしたw
お店の人は「どうぞ、いいですよ」と言ってくれたのですが、まだ10時前で食べるにはちょいと早すぎるw
ですから先にお城を見て回ったのですが、階段の上り下りなどでちょうどいい感じで腹も減ってきました^^
具雑煮定食の松を2つと子供には単品の具雑煮。
鰹出汁のよく効いた具雑煮は文字通り具だくさんで腹一杯になります。
食後に寒ざらしを頂いてごちそうさま・・・
さて、時計の短針がそろそろ右に傾いてくる頃です。
次の目的地に向かうべくお店を出ました・・・
2015,07,29, Wednesday
美味しい具雑煮を頂いたあと、南島原にあるとある道の駅へ向かいます。
「みずなし本陣ふかえ」という道の駅には「土石流被災家屋保存公園」なるものが隣接されています。
文字通り普賢岳噴火の際に発生した土石流の被害に遭った家屋を保存している施設です。
せっかく島原にやってきたわけですから、24年前に起こった大災害の痕跡ををあらためて現地で見てみたいと思いました。
このように土石流に巻き込まれて埋もれてしまった住宅11棟が当時のまま保存されています。
そのうち大型のテントの中には3棟保存されていますが、3番目の画像にある立派な家は移築された家だそうです。
ゆっくりと押し寄せてきた土砂は、建物を崩壊させることなく3mほど堆積しています。
これらを見た時、正直驚きました。
建物が押しつぶされたり流されてしまうと痕跡はほとんど残らないわけですから、その惨状をそのまま後世に残すことは困難です。
しかしこのような状況で被災した建物ならそのまま保存できますよね。
当時のまま・・・このキーワードは重要です。
ネットでこの施設の存在は知っていましたが、実際に自分の目で見てみるとその衝撃は想像以上でした。
中学生の修学旅行で鹿児島に行った際、桜島の火山灰に埋まった鳥居を見た時と同じ感覚。
自然の恐ろしさをあらためて思い知りました。
さて、保存家屋を見たあとはもう一つ見ておきたいものがあります。
ここから東に車を走らせると「大野木場砂防みらい館」という施設があります。
ここには火砕流の被害に遭ったある建物が保存されていました・・・
旧大野木場小学校です。
この小学校のすぐ裏を流れていった火砕流の被害に遭い全焼しました。
驚いたのはこれが火砕流本体に飲まれて被災したわけではないということ。
この火砕流は北側にある溶岩ドームから流れてきて水無川付近で東に向きを変え、小学校の裏を川に沿って流れていきました。
火砕流の直撃は受けなかったのにどうしてここまで被害を被ったのか・・・
それは、熱風・・・
火砕流本体は川に到達すると向きを変えましたが、熱風はそのまま直進して水無川の南側を焼き払っていったのです。
600℃以上ともいわれる熱風に近隣の住宅150戸以上が全焼し、大野木場小学校も内部がほとんど焼失。
特に西の端にあった理科室は床は全て焼けてなくなりました。
それらはそのまま今も保存されているのですが、なんと衝撃のあまり内部の写真を撮り忘れてしまいました・・・w
これは校庭にある大きなイチョウの木。
この木も熱風に焼かれて黒焦げになったそうなのですが、奇跡的に復活して立派な姿で同じ場所に立っています。
さて、これまで雲仙普賢岳の災害遺構を2つ見てきました。
当時高校生だった私はテレビで毎日のようにこの普賢岳のニュースを見ていましたが、あれから24年・・・
その爪痕を今、こうやって自分の目で見て初めてその恐ろしさが少しでも実感できたような気がします。
かみさんもその事実は知識としてありながらも、実際にこうやって保存された現場や資料を見ることでいろいろと実感できたのではないかと思います。
特にかみさんは実家が東日本大震災で津波の被害に遭っているわけですから、それと重ね合わせているのか神妙な面持ちでこれらを見ていましたね。
「勉強になった」
あまり聞かれない言葉をかみさんの口から聞いた時は、見に来てよかったと思いました。
さぁ、そろそろ次に進みましょう。
ここまでのロケーションが非常に暑かったため、少し涼みに行きましょうか・・・
「みずなし本陣ふかえ」という道の駅には「土石流被災家屋保存公園」なるものが隣接されています。
文字通り普賢岳噴火の際に発生した土石流の被害に遭った家屋を保存している施設です。
せっかく島原にやってきたわけですから、24年前に起こった大災害の痕跡ををあらためて現地で見てみたいと思いました。
このように土石流に巻き込まれて埋もれてしまった住宅11棟が当時のまま保存されています。
そのうち大型のテントの中には3棟保存されていますが、3番目の画像にある立派な家は移築された家だそうです。
ゆっくりと押し寄せてきた土砂は、建物を崩壊させることなく3mほど堆積しています。
これらを見た時、正直驚きました。
建物が押しつぶされたり流されてしまうと痕跡はほとんど残らないわけですから、その惨状をそのまま後世に残すことは困難です。
しかしこのような状況で被災した建物ならそのまま保存できますよね。
当時のまま・・・このキーワードは重要です。
ネットでこの施設の存在は知っていましたが、実際に自分の目で見てみるとその衝撃は想像以上でした。
中学生の修学旅行で鹿児島に行った際、桜島の火山灰に埋まった鳥居を見た時と同じ感覚。
自然の恐ろしさをあらためて思い知りました。
さて、保存家屋を見たあとはもう一つ見ておきたいものがあります。
ここから東に車を走らせると「大野木場砂防みらい館」という施設があります。
ここには火砕流の被害に遭ったある建物が保存されていました・・・
旧大野木場小学校です。
この小学校のすぐ裏を流れていった火砕流の被害に遭い全焼しました。
驚いたのはこれが火砕流本体に飲まれて被災したわけではないということ。
この火砕流は北側にある溶岩ドームから流れてきて水無川付近で東に向きを変え、小学校の裏を川に沿って流れていきました。
火砕流の直撃は受けなかったのにどうしてここまで被害を被ったのか・・・
それは、熱風・・・
火砕流本体は川に到達すると向きを変えましたが、熱風はそのまま直進して水無川の南側を焼き払っていったのです。
600℃以上ともいわれる熱風に近隣の住宅150戸以上が全焼し、大野木場小学校も内部がほとんど焼失。
特に西の端にあった理科室は床は全て焼けてなくなりました。
それらはそのまま今も保存されているのですが、なんと衝撃のあまり内部の写真を撮り忘れてしまいました・・・w
これは校庭にある大きなイチョウの木。
この木も熱風に焼かれて黒焦げになったそうなのですが、奇跡的に復活して立派な姿で同じ場所に立っています。
さて、これまで雲仙普賢岳の災害遺構を2つ見てきました。
当時高校生だった私はテレビで毎日のようにこの普賢岳のニュースを見ていましたが、あれから24年・・・
その爪痕を今、こうやって自分の目で見て初めてその恐ろしさが少しでも実感できたような気がします。
かみさんもその事実は知識としてありながらも、実際にこうやって保存された現場や資料を見ることでいろいろと実感できたのではないかと思います。
特にかみさんは実家が東日本大震災で津波の被害に遭っているわけですから、それと重ね合わせているのか神妙な面持ちでこれらを見ていましたね。
「勉強になった」
あまり聞かれない言葉をかみさんの口から聞いた時は、見に来てよかったと思いました。
さぁ、そろそろ次に進みましょう。
ここまでのロケーションが非常に暑かったため、少し涼みに行きましょうか・・・
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